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最終更新日:2019年10月28日

2016年9月19日

障害者はゲームでどう描かれてきたか

※現在は障害者の表記に「障がい(碍)者」という書き方も用いられていますが、言葉自体は同じという観点から、この記事では「障害者」に統一しています。

2016年7月26日、障害者施設で戦後最悪と言われる大量殺人事件が発生しました。あらかじめ障害者のみをターゲットにした「ヘイトクライム」であることは明白ですが、多くの人が指摘していたように、現在の日本社会でそういった蛮行を容認するような空気が大きくなりつつあることは、残念ながら事実と言えるでしょう。そんな中で、エンターテイメントには一体何ができるのか。ゲームの中で描かれる障害者像について、私は過去に考察したことがあるのですが、この機会に今一度、同じテーマを考えてみたいと思います。無論、いいとか悪いとかをここで判断しきれるものではなく、今後どのようにしていくべきか?を考える一助になればと望みます。


このテーマを語るにあたって、やはり避けられないのが1998年のTacticsの作品「ONE~輝く季節へ~」でしょう。現在のKeyのメインスタッフが制作した作品で、麻枝准氏のデビュー作でもあります。この作品は当時、様々な面で賛否両論を呼びましたが、この記事ではあえて「障害者の描写」についてのみ取り上げて書きます。

ストーリーについて詳しく語るとまた長くなってしまうので、知らない人のためにものすごく簡潔に紹介すると、ONEはSFファンタジーの学園もの恋愛ノベルゲームです。元は18禁PCゲームですが、PSにも移植されています。どうしてこの作品が今回のテーマで避けられないのかと言うと、攻略対象の6人の女の子のうち、実に半分が障害者という構成だからです。全盲の先輩・川名みさきをはじめ、先天性の聴唖(耳が聞こえるけど話せない)という珍しい障害を持つ上月澪、作中明記はされていませんが描写から非定型発達(いわゆる発達障害)と推測される椎名繭というキャラが登場します。

ギャルゲーの歴史において、学園純愛もので障害者を攻略対象キャラとすることについては、このONEが先駆者だと思います。少なくとも私の記憶にあるそれより前のメジャー作品――コナミの「ときめきメモリアル」、エルフの「同級生」シリーズ、リーフの「ToHeart」、F&Cの「Piaキャロットへようこそ!」(これは学園ものじゃないけど)などには、障害を持つキャラは一切出ていません。メイド調教物の「殻の中の小鳥」(STUDIO B-ROOM)では、レンという全盲のキャラがいましたが、あの作品はメイド達全員が不幸な境遇という前提があったので、世界観に沿うためにあえて選んだ特殊な設定といえるでしょう。それは同時に、そういった扱い自体が、障害者に対する私達の社会の差別意識を表しているとも考えられます。

そこへ3人もの障害者キャラを登場させたONEは、当時の私にとって驚きでした。この作品自体の衝撃も相まって、これ以降他の純愛ものギャルゲーにも障害者キャラが時々登場するようになったと思います。しかし、それが現実の障害者の益になっているかと言ったら微妙なところで、むしろ勝手な先入観と偏見を助長する原因になっているのでは?と、私は懸念します。(もちろんこれはゲームだけではなく、ドラマや映画等にもよくある問題です。)

ただし私自身は、ONEで疑問を抱いたのをきっかけに現実の障害者の事情についていろいろ調べて、知識を得ることができたため、個人的にはいい影響がありました。多分、他にもそういう人はいたのではないかと思います。ですので、そういう意味で「現実の障害者の益」が存在することも事実でしょう。とはいえ、障害を持つ人の状況は本当に千差万別なので、それで十分な理解ができたかといえば自分自身まだまだです。私には知的障害の親戚が二人いますが、私が世話をしているわけではないし、大人になってからはほとんど連絡もしていないため、障害者が身近だとはとても言えません。

※記事の主旨とは直接関係ありませんが、その時みつけたお薦めの書籍を紹介します。「薫ing」(岡田なおこ著/岩崎書店刊):脳性まひの作者が自身の体験を元に書いた、中高生向けの「青春小説」です。ありがちな感動路線のドキュメンタリーではなく、等身大の笑いあり涙ありの作品です。他にも、エッセイと一緒に社会人生活の小説が収録されている同じ作者の「なおこになる日」(小学館刊)という本もお薦めです。

ONEの場合、決して障害者の実態を描いているわけではなく、どちらかというと美化して描いているのにも関わらず、文章の質の高さゆえにそれを“萌え要素”として疑問なく認識させてしまったことが、功罪のひとつだと考えます。(特に、筆談でいちいち「あのね」「~なの」と書いたり、知的障害はないにも関わらず非常に幼い行動をしたりする澪の描写は、今見るといくらなんでもあざとすぎると言わざるを得ません。)つまりそれは、その「理想」から外れる現実の人間に対して、良くない感情を抱かせる恐れがあるということです。ゲームの中の障害者キャラに萌えていながら、件の事件の犯人の思想に同調する人が存在する可能性を、私は否定しきれません。

以前書いた「沙耶の唄」についての記事でも、Key作品のそういう点に少し触れましたが、例えばONEには盲目のみさき先輩と主人公(浩平)の間に、以下のような会話があります。

「…どうしたの?」
「何がだ?」
「今日の浩平君無口だよね」
「そうかな」
「うん。せっかく一緒に帰ってるんだから、もっとお話ししようよ」
「そうだな…先輩ってつきあってる奴とかいないのか?」
「いきなりな質問だね」
「…いや、気を悪くしたのなら謝る」
「謝らなくてもいいよ。ただちょっと驚いただけだから」
「やっぱりぶしつけだったな…」
「でも、訊きたかったんだよね?」
「ああ…」
「いないよ」
「…そうか、先輩だったらずいぶんもてると思ったんだけどな」
「そんなことないよ」
「でも、告白されたことくらいあるだろ?」
「…うーん、そうだね」
「だったら」
「でもね、私は絶対に断るよ」
「だって、残酷だからね」
意外な言葉だった。
「私とつき合うってことは、私が背負うハンデをその人にも押しつけるってことだから」
「一緒にいる時間が長ければ、きっと私はその人に迷惑をかけると思う」
「…そんなことないって」
「浩平君」
まっすぐにオレの方を向く。
「あのね、世の中の人は浩平君が思っているほどいい人ばかりじゃないんだよ」
「……」
オレはその先輩の悲しそうな目に言葉を返すことができなかった。
「…苦しい思いをするのは、私だけで充分だよ」
「だから、私は自分の好きな人を束縛するようなことはしたくない…」
「……」
(ゲーム本編12/27のシナリオより)

私を含めて障害が身近でない人が読んだら、切なくて悲しい“いいシーン”に感じると思います。が、前述した岡田なおこさんの小説の中で、脳性まひの主人公とまわりの友人達が自然に好きになったりなられたり、またうまくいかなくてジタバタしている様(本来当たり前であるはずの)が描かれているのを読むにつけ、みさき先輩の台詞が誰にとって都合が良くて、そして誰がそれを書いて彼女に喋らせているのか私は考えざるを得ず、そうすると改めて気付くことがある気がします。

一応注記しますと、私個人はみさき先輩というキャラクターはむしろ好きです。ユーモアのあるとぼけた性格や、大食漢であること(食べ物に対する執着を萌え要素として提示したのもONEが最初と思われます)、主人公に対して彼の厭世観をきっぱり否定してみせるところなどは魅力的です。しかし、一方で障害者を描く上で生じる矛盾や不自然な点をあえて無視している(さすがに単なる無知でやっているとは思えないので)シナリオの姿勢は、この作品の目的が別にあることの証左であるわけですが、それについてはまた別の機会に詳しく書きたいと思います。

※障害者がメインキャラとして登場する作品としては、他に私は「魔都紅色幽撃隊」(アークシステムワークス/トーイボックス)や「銀色」(ねこねこソフト)などが思いつきますが、これらは障害の原因に超常現象が絡んでいる作品なので、ここでは除外します。また、「ガンパレードシリーズ」(SCE/アルファシステム)や「水月」(F&C)にも障害者は登場しますが、これらは障害の具体的な描写や必然性が薄く、題材として取り上げるには至らないと判断しやはり除外します(車椅子で階段上り下りとかするし)。

障害者の設定をうまく生かしている例としては、私は個人的に故・管野ひろゆき氏作の「ミステリート~不可逆世界の探偵紳士~」(2004年アーベル)を挙げます。この作品には「前向性記憶喪失」の少女が登場します。私は、これで初めてこの障害を知りました。彼女の記憶が事件の鍵を握っていることは無論、記憶をとどめておけないことに対する切なさも感じられ、管野氏の先見性と見事なストーリーテラーぶりに感心しました。(映画にもなった「博士の愛した数式」(小川洋子著/新潮社刊)は、これの前年の出版です。)けれども、ミステリーのような特殊な状況でなくては障害者を出してはいけないのかというと、それも疑問に思います。

そう考えた時に、私が過去にプレイしたゲームで印象深かったのが、すたじお緑茶のアダルトゲーム「夏日(かじつ)」(2002年)です。(公式の製品ページはすでになくなっているため、リンクはInternet Archives経由です。)一時期流行りだった「田舎の夏休み」的世界観に、メインヒロインを知的障害の少女にするという挑戦的な内容でした。都会で暮らしていた主人公が小さい頃住んでいた村へ戻ってきて、言葉でコミュニケーションがとれない少女“ちや”と交流するという話です。もちろんこの作品も、緻密に障害者の実情を描いているわけではありません。しかし、私がこの作品で評価したいのは、あまり障害者を美化することはせずに、困るところも含めて淡々と表現していた点です。

なお、知的障害の少女とどうやって18禁な展開になるかというと、忌憚なく言ってレイプです。ひどい話ですが、現実にもあることなのでむしろリアリティのある展開と言えるかもしれません。(逆に障害者の男性が介助者の女性を襲うケースもあります。)こうした被害は、現実では事件化する率が極めて低いのも深刻な問題です。この作品でまだ救われるのは、決して主人公が正当化される形にはなっておらず、選択によっては彼女に命の危機をあっさり見捨てられる結末もあることです(至極当然)。グッドエンドも単純なハッピーエンドではなく、ちやが自分が好意を持っている人の行為を、意味がわからないまま受け入れてしまうことへの危惧も感じて、考えさせられました。(まあ、おまけではアクロバティックな方法で強引に合意のHシーンが描かれていますが…。)

ゲーム付属の説明書および設定資料集によると、ちやは「器質因」つまり先天性の障害であることが明記されています。なんらかのきっかけで治る可能性を否定したかったそうです。また、この企画は元々同人として計画したものであり、最初から商業として出す予定だったら通らなかったかもしれないとも。当事者は治るものなら治ってほしいでしょうけど、否応なしに抱えて生きなければならないのが障害です。もっとも全ては「程度」や「内容」の差であって、100%全て健康な人間なんてめったにいないのではないかと、私は思います。(私自身も精神疾患になったことがあるし、数年前に胃を悪くして未だに時々痛いし、高血圧症に悩んでいます。)

長々と述べてきましたが、結局のところエンターテイメントにおける障害者の表現に関しては、どうしても特別視する私達自身の感覚こそが、問題のある表現を生んでしまうのだと考えます。そこを改善するには、ことさら障害をクローズアップせずに、その空間に当たり前に存在する人間として描くことがまず必要なのではないかと思います。実際に海外ではそのような配慮が取り入れられ始めている近年、日本のクリエイターにもどんどん挑戦していってほしいです。そして、視覚障害者や聴覚障害者の人も(いや、できればどんな障害を持つ人も)同じようにゲームを楽しめる世の中になってほしいと、私は願っています。


※補足:「リアルサウンド~風のリグレット~」について

少し主旨が違うので補足として書きますが、セガサターン(後にDCにも移植)用ゲームでワープの故・飯野賢治氏の作品です。これは立体音響を使用した「音だけのゲーム」で、画像は一切ありませんでした。よって、視覚障害者でもプレイ可能ということで、点字の説明書を用意し、その案内がパッケージに入っていました。脚本は「東京ラブストーリー」の坂元裕二氏で、菅野美穂さん、篠原涼子さんがヒロインの、昔のトレンディドラマをほうふつとさせるストーリーでした。

しかし、視覚障害者が理解しにくい「色」を物語の重要なポイントにするという難点もあり、坂元氏にそこまでのオーダーはされなかったと思うので、これは純粋に制作者側の落ち度でしょう。視覚障害者への配慮はあくまでついでであって、最初からそれを念頭に開発されたのではないのだろうと推測します。(そもそも目が見えない人には、ディスク交換も困難です。)ゲームに限らず、新しい商品を開発する際、(本末転倒ですが障害者向けの商品であっても)開発者の多くが健常者であるため、障害者に対する配慮がこぼれがちなのは今も現在進行形の問題です。

※そういえば、その前の「エネミーゼロ」という作品も音で敵を判別するというゲームだったので、聴覚障害者にはプレイ不可能でした。音を振動に変換できたらいけたかもしれませんが、セガサターンには振動機能はなかったんですよね…。


※2023年4月29日追記
ONEのリファイン版が2023年に発売されることがついに発表されました。しかし、上記したように様々な問題点を含む作品なだけに、ポリティカル・コレクトネスやフェミニズムの概念が多少なりとも進歩した現代の観点から見ると、シナリオがあのままだとすれば当時より厳しい評価にならざるを得ないと、個人的に思います。